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Barbapapa バーバパパ見つけた [フランス]

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バーバパパ好きだった。
このぐにゃぐにゃ感が。
かなり環境問題とか盛り込まれてる物語多いけど。
変形したり、同化したり、変身したりって、いい。



画像:Rue89

イスラム国の蛮行に、フランスのイスラム教徒が、パリの大モスクに。 [フランス]

「フランス人写真家・登山家のエルベ・グルデル(Herve Gourdel)さん(55)がsafe_image.jpg
イスラム国と関連のあるアルジェリアの武装組織によって殺害されたことを受け、フランス全土で半旗が掲げられている。集会に参加した人たちはグルデルさんの殺害に抗議した。」

この事件は、本当に、気の毒。
イスラム教とは、こんなひどいことを許すのかと勘違いしてしまう。
フランスにいるイスラム教徒の人たちが、
「26日、イスラム教スンニ派過激派組織「イスラム国(Islamic State、IS)」による「野蛮な行為」を非難するため、イスラム教指導者らの呼び掛けに応じたイスラム教徒数百人がパリ(Paris)の大モスク(イスラム礼拝所)周辺に集まった。」
これは、同じイスラム教徒の人たちが、抗議してところが、意味あるね。
「フランス国内の約500万人のイスラム教徒を代表する組織、仏イスラム評議会(French Council of the Muslim Faith)のダリル・ブバクール(Dalil Boubakeur)会長は集まった人たちを前に「われわれフランスのイスラム教徒は、野蛮な行為、テロ行為をやめるよう訴える」と述べ、「イスラムは平和の宗教だ。生命の尊重を命じている」と強調した」


画像:Rue89より
AFP参照


フランスのタバコ問題 [フランス]

フランスのタバコに関する問題の記事目にした。
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フランスでは、年間7万人以上が、タバコに関連した病気で亡くなってるとか。
フランス政府は、それに対する新しい政策をとろうとしてる。
子供(12歳以下)の子供が乗る車や公園が、喫煙禁止にするとか。
十代の子たちの喫煙率が高くて、それに対する対策に、タバコのパッケージの無印化しようとしてるとか。
もちろん、タバコ会社は、反対だろうけど。

それにしても、意外。フランスといえば、ワインで、ほとんどの人が、アルコールに強い
(言いにくいけど、ある中のケありとか)
ってイメージなのに、そんなに、喫煙好きだったとは。
フランスには、喫煙者は、1300万人ぐらいで、若者の間で、喫煙者が増加してるとか。
日本にいらっしゃるフランス人方々は、タバコ吸ってないみたいだけど。。







Rue89、BBC より
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フランス前大統領 ニコラ・サルコジ氏が、政界復帰表明 [フランス]

UMPって何だろうと思って日本の記事探しました。フランス語の勉強するには、政治のこと知らないとだめという。なぜかというと、フランス人は政治の話が好きだから。それにしても、この元大統領、逮捕されてたような気がするけど、ちょっと前。いつだったか、そんな前ではないはず。

サルコジ前大統領は19日、「国民に新たな政治的選択肢を提供することを決めた」と自身のフェースブックで語り、政界復帰を目指す意向を表明。
11月末に予定される保守系最大野党の国民運動連合(UMP)党首選に出馬する。
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略歴  イギリスのブレア氏がお好きだったとは。イメージ変わった。
ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ=ボクサ(フランス語: Nicolas Paul Stéphane Sarközy de Nagy-Bocsa、1955年1月28日 - )
フランスの政治家。第23代フランス大統領(フランス第五共和政)(2007年5月16日 - 2012年5月14日)およびアンドラ公国の共同大公。前国民運動連合党首。
ユダヤ人を母に持つハンガリー移民2世で、ともにアメリカですら例のない移民2世、ユダヤ系の大統領の誕生はフランスの多民族国家化を強く印象づけた。本人はカトリック信者。
尊敬する政治家:イギリスのトニー・ブレア,イタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニ.。

画像は、フランスの記事、fbみてたらでてきました。
france 24も、参考に。

エールフランスAir France パイロットのスト中 ロゴ付 [フランス]

エールフランス、パイロットのストで6割欠航してるとか。
仏航空大手エールフランス(Air France)のパイロットたちが今週、同社傘下の格安航空会社のサービス拡大に抗議してストライキに突入し、運航便の半数以上に影響が出ている。AFP時事より

エールフランス航空に、お知らせが出てた。
「2014年9月15日-22日の間エールフランス航空のパイロット組合によるストライキが予定されております。これを受け、エールフランス航空の一部のフライトの欠航が決定しております。」

ところで、ちゃんと見てなくて、気づかなかったけど、ロゴが変わってる。
2009年までの方が好きだった。
どちらがお好き?
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エールフランス(フランス語: Air France)はフランスの航空会社。
ヨーロッパでは1位、世界では4位の規模である。

仏マラソン大会☆シャトー巡りながらワイン飲み放題! [フランス]

おいしそうすぎる。でも、ワイン飲んで、酔っ払ってくるのに、走れるのかしら。
走りつつ、ワインも飲んで、地元のチーズ、果物たべて、また走る?さすが、お酒に強いフランス人だけあるw。私なら、ワイン飲んで走ったら、目回る。美味しいもの食べたら、またワイン飲めてしまったら、できあがって、走るどころじゃないと思うけど。でも、いいイベントだ。

フランス南西部ボルドー(Bordeaux)近郊のメドック(Medoc)地方で週末、ブドウ畑の中を走り抜けシャトー(ワイン醸造所)を巡る恒例の「メドックマラソン(Marathon du Medoc)」が行われた。
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 今年で30回目を迎えたこのマラソン大会では、世界的に有名なシャトー・ラフィット・ロートシルト(Chateau Lafite Rothschild)やシャトー・ムートン・ロートシルト(Chateau Mouton Rothschild)、シャトー・ラトゥール(Chateau Latour)をはじめとする地元のワイン醸造所30軒以上が敷地を解放。全長42.2キロのコース沿いに設けられた23か所の給水所で、各シャトー自慢のワインが振る舞われる。

 沿道では地元特産の美食も提供され、思い思いの仮装に身を包んだ参加者たちがフォアグラや生がき、ステーキ、生ハム、チーズ、果物などに舌鼓。

パリ国立オペラ☆バレエ☆オペラ座の歴史 [フランス]

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パリオペラ座のバレエは、コールド(群舞)の美しさが定評。みんなソロで踊れるダンサーばかりのエリート集団と言われる。とにかく才能豊か。フランスのバレエだけあって、衣装や美術もきれい。本当にきれいなバレエダンサー、やはりピラミットという階級制で、とても競争激しいし、才能のぶつかりあい。
世界のどのバレエ団がいいかは、好みの問題だけど。ロシアもアメリカも、イギリスも伝統あるバレエ団あるし。でも、パリのオペラ座は、内もパリの観客も目が肥えてるだけあって、美そのもの。

パリ国立オペラ(Opéra national de Paris)は、フランスを代表するオペラ、バレエ団体。
文化省が管轄する『商工業的性格の公共機関』(Établissement public industriel et commercial français)の一つで、過去・現在のオペラとバレエ作品の紹介を使命としている。
主にパリのガルニエ宮とオペラ・バスティーユで公演している。この団体を指してオペラ座と呼ぶこともある。
後進育成の教育施設を持ち、また、青少年のための催しを毎シーズン開く。
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歴史
『パリ国立オペラ』とは、パリの『国立オペラ―バレエ劇団』の、1994年以降の名前である。
みなもとは、『音楽アカデミー』で、それは、作曲家ロベール・カンベール(Robert Cambert)と組んで宮廷用オペラを作っていた詩人ピエール・ペラン(Pierre Perrin)の請願が、財務総監コルベールの仲立ちで、
ルイ14世に認められ、1669年に設立された。
その後、『王立』、『帝国立』を冠したことも、単に『オペラ』と呼んだときもある。
その『オペラ座』または『パリ・オペラ座』の呼称がいつごろから広まったかは、明らかにできないが、1875年開場のガルニエ宮の所在地は、『オペラ広場』で、1878年敷設の、ガルニエ宮とコメディ・フランセーズとを直に結ぶ街路は、『オペラ大通り』である。日本のある仏和辞典は『opéra:歌劇、歌劇場』、『Opéra:パリのオペラ座』と書いている。
劇団が本拠とする劇場も《世界初演とそのときの劇場》にあるように移り変わった。
1672年、イタリア生まれのジャン・バティスト・リュリ
ペランとカンベールを逐い、多くの自作を公演した。しかし、後継の親族らの経営は低迷し、1733年以降のラモーのオペラは評判を呼んだが、赤字は積もった。
フランス革命の10年ほど前には、ドイツのグルックとイタリアのピッチンニのオペラが、競り合った。革命期には、迎合的な作品も上演された。経営者が次々と代わり、
ナポレオン政府の1807年の経済的措置でようやく救われた。
1821年からの11代目の劇場サル・ル・ペルティエでは、まずパリに滞在中のイタリアのロッシーニが活躍した。ドイツのマイヤベーア、イタリアのドニゼッティもパリに住んでオペラを書いた。
初演ではないが、ワーグナーは、『タンホイザー』のオペラ座公演(1861年3月13日)のため、パリ人が好きなバレエを書き加えた(「パリ版」と呼ばれる)。
1880年3月22日には、ヴェルディが、ガルニエ宮で『アイーダ』の棒を振った。
300余年前の発足時から、この劇団は、内外の多くのオペラとバレエとを舞台にかけ、諸国の指揮者・歌手・演奏家・舞踊家・管弦楽団・歌劇団・バレエ団などを広く招き、世界的な歌劇団としての役割を果たしてきた。
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予言者ノストラダムスとジャム (コンフィチュール)との深い関係? [フランス]

予言者ノストラダムスとは、ノストラダムスにとっては、裏の顔?
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では、なぜ、予言、占星術に詳しかったかというと?
ノストラダムスの時代の医師は、薬学、植物学、天文学(占星術)を修めていた。
とりわけ、医学と天文学との関わり密接だった。当時の医学には、月や星の法則が取り入れられていた。

ノストラダムスの歴史
ノストラダムス 1503年 南仏 プロバンス地方の裕福なブルジョワの家庭に生まれる。
モンペリエ大学 医学部で勉強。
医師となったノストラダムスが立ち向かったのが、当時猛威をふるっていたペストで、最初の妻、子供をペストでなくす。
1546年、同地方、Aix en Provence地方で、ペストが大流行した時、最前線でペスト撲滅に専念する。
この時、ネズミが感染の媒介になっていると見抜いていたとか。
アルコールや熱湯消毒、火葬を推奨したという。

ノストラダムスには、もう一つの顔が、美味しいものなの。
それが、ジャムを作ることを広めたこと。

当時、プロバンス地方は、フランス有数の果実の産地で、収穫時期には、
食べきれない果実が、大量に廃棄されていた。
それを、冬や飢餓に備えて、保存する方法はないかと考えた。
1543年から、3年間、当時の学問の先進国イタリアに滞在、そこで、砂糖や、蜂蜜での保存されてた。
1555年、果実と野菜の保存方法、「化粧品とジャム」の本、出す。

余談だけど、ノストラダムスは、何か映画の中で、妙に女性に人気だったような。。。
それと、ペスト感染者に、バラを下に入れてたような。。。

あの予言者と言われるノストラダムスが、フランスに、果実や野菜の保存する方法を広めることに貢献した。
水がめに、未来が見えて、それを書き留めたっていう予言も、すごいでしょうけど、こちらもまたすごいと思います~

サンジェルマン伯爵  ヨーロッパ史上最大の謎の人物?!2 [フランス]

サン・ジェルマン伯爵

つづきです。

「シャンボール城の化学実験室
サン・ジェルマンは1746年までロンドンで過ごした。その後12年間については活動が確認されていないが、化学と錬金術の研究のためにドイツで隠棲していたとする説、およびインドやチベットまでを含む旅行に出ていたとする説がある。後者の説についてはその旅を証拠づける史料は皆無だが、東洋世界について非常に博識であったことは事実である。

1758年の初めにパリに移り、王の営繕官 (directeur des Bâtiments du Roi) であったマリニー侯爵に対して、研究室および作業場のために王族所有の施設を使わせてくれるように要請する書状を出している。この中で、その交換条件としてルイ15世に「人類が知る中で最も豊かで希有な発見」をもたらすと約している。マリニーは無人となっていたシャンボール城をあてがい、サン・ジェルマンはこの城と付属施設に助手、使役人を住まわせ、研究室を整えた。

サン・ジェルマンはシャンボールよりはパリにいることの方が多かった。ポンパドゥール公爵夫人に面会し、夫人の紹介により王ルイ15世とも面識を得ている。王はただちにその聡明な人柄を評価し、親しい関係を結ぶこととなった。

ルイ15世の寵愛とショワズールの関係
サン・ジェルマンは王と親しい関係を結ぶが、ルイ15世の重臣ショワズール公爵 (duc de Choiseul) は彼を疎み、信頼を貶めるべく策を巡らせた。ショワズールはゴヴ (Gauve) という名の道化を雇い、サン・ジェルマンの振りをさせたという。ゴヴはサン・ジェルマンの風体でさまざまなサロンに姿を見せ、ありそうもないほら話を吹聴した。

ゴヴの活動は直ちに暴露されその正体が明かされることとなったが、ショワズールの企みはサン・ジェルマンをペテン師に貶めることにはならず、むしろ逆に威光を増すことになり、ミステリアスなオーラを与えることになった。
ショワズールは1760年になってようやく、サン・ジェルマンをスパイ容疑で告発することによって厄介払いする。この結果サン・ジェルマンは名誉を損なわれてオランダへ逃れることとなった。これ以降、サン・ジェルマンの足跡はイギリス、イタリア、ロシア、ザクセンおよびプロイセンで確認され、さまざまな地で顔料と色彩についての研究を披露しようと努めたことが分かっている。

その死
1766年、プロイセンの王フリードリヒ2世の庇護を受けるが、翌年にここを発ってバルト海に面したゴットルプに至り、ヘッセン (Hessen) の領主のもとに身を寄せた。1784年2月27日にこの地で亡くなったという。親しい関係を保っていたヘッセンの領主によれば、93歳であったと伝えられている。しかしこの死に関しては後述のように、さまざまな伝説がある。

伝説の数々・不死伝説
サン・ジェルマンにはさまざまな噂がつきまとったが、生前に敢えてそれを否定しなかった為もあり、稀に見る特異な人物として歴史に名を残すことになった。彼が人類普遍の夢である不死の象徴として語られることも、こうした伝説の流布を助長したと考えられる。以下はそうした伝承の代表的なものである。
彼は宝石を散りばめた衣装をまとい、丸薬とパンと麦しか口にせず、ギリシア語、ラテン語、サンスクリット語、アラビア語、中国語に加えて仏・独・英・伊・葡・西の各国語を話したといわれる。身なりに気を使い、クラヴサンとヴァイオリンの名手であり、作曲もこなした。また化学と錬金術に精通しており、ついには不死を可能にする著作をものしたともいわれる。また、カリオストロが所有していたとされる実在の18世紀の秘伝書『La Très Sante Trinosophie』の著者であるといわれるが、確たる証拠はなく、しばしば反論の対象となっている。また貴石・宝石の類いにも非常な関心を持って多くを所有していたといわれ、ダイヤモンドの傷を消す秘法を身につけていたとされる。

前世の記憶とそれに関連する知識がある、あるいは、常軌を逸した長寿をもたらす秘薬を持ち、その結果2000年とも4000年ともいう驚異的な記憶を有していたといわれる。カナの婚礼やバビロンの宮廷を巡る陰謀などを語ることができた。哲学者ヴォルテールは1760年4月15日のフリードリヒ2世に宛てた書簡で、サン・ジェルマンについて「決して死ぬことがなく、すべてを知っている人物」であると書き、フリードリヒ2世も彼を「死ぬことのできない人間」と記している。ニコラ・シャンフォール (Nicolas Chamfort) によれば、サン・ジェルマンの使用人に「あなたの主人は本当に2000歳なのですか」と問うたところ、彼は「それはお教えすることができません。わたしはたった300年しかお仕えしていないのですから」と答えたという。

ポルトガル系ユダヤ人とも、ルーマニアのトランシルヴァニア地方にあるラーコーツィー王家の王位継承者王家に縁の人物(ただし、当時ルーマニアは国家としてはまだ存在していなかった)ともいわれ、自分の年齢を2000歳とも4000歳であるともし、ソロモン王やシバの女王と面識があったとも語っていたとされる。十字軍では、パレスチナにおいて、イングランド王リチャード1世とも会話したともいう。また「自分は不老不死なので、霊薬を口にする他は食事は必要としない」と言って、実際に人前では全く食事をしなかったとされる。

作曲家のジャン=フィリップ・ラモーは「自分は人生で何度かサン・ジェルマンに会ったことがあるが、数十年たっても、どれも同じ年齢のサン・ジェルマンだった。彼の存在は神秘そのものだとしかいいようがない」と記している。またセルジ伯爵夫人 (comtesse de Cergy) は同年、大使夫人時代にヴェニスで彼に会ったが、約40年後に再び会った際に全く年を取ったように見えなかったという。こうした証言は非常に多い。サン・ジェルマンは自らの姿を眩ますことができ、また催眠術を身につけていたとされるが、これがこうしたさまざまな噂の発端となっている可能性もある(当時、催眠術は夢遊病や動物磁気による催眠現象に結びつけて考えられていた)。

1760年に謀略によってフランスを離れることを余儀なくされ、その後プロイセン、ロシア、イタリア、イギリス、オーストリアを点々とし、最終的に錬金術に関心を持っていたシュレースヴィヒ=ホルシュタインの領主のもとに辿り着くが、この直後に使用人の女2人の腕の中で亡くなり、大革命の最中の亡霊としてパリに現れたともいわれる。

スパイ容疑についてはさまざまな説があるが、事実があるとしてもその目的は謎である。三重スパイであったともされるが、絶対王政や、さらにはドイツ系の薔薇十字団によるヘゲモニーにも不満を持っていなかったとする証言も多い。

ジャコモ・カサノヴァはオランダのハーグでサン・ジェルマンに面会したという。そのときサン・ジェルマンはアルメニア風の装束に身を包んでいたという。これは17世紀に巷間から消えたいまひとつの長寿伝説、すなわちいわゆる「彷徨えるユダヤ人」について言われることと同じことである。カサノヴァはサン・ジェルマンの名声と欺瞞について疑いを抱いたとされる。また、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテはサン・ジェルマンの弟子であるといわれる。

これらのことからサン・ジェルマンが「ヨーロッパ史上最大の謎の人物」とされることがある。
サン・ジェカルボナリ党に入党したナポレオン3世はサン・ジェルマンに関心を抱き、彼に関係する書類等をテュイルリー宮殿に集めるように警察に命じた。この時の資料は1871年に同宮殿を襲った火災によって消失し、サン・ジェルマンの足跡のほとんどがこの時に失われたといわれている。」

ところで、
パリの中心部に、St-Germain 教会ってありますが。ここは、この伯爵の教会ってことなんでしょね。

サンジェルマン伯爵  ヨーロッパ史上最大の謎の人物?! [フランス]


サン・ジェルマン伯爵
サンジェルマン伯爵(Comte de Saint-Germain、1691年あるいは1707年? - 1784年2月27日)は、18世紀のヨーロッパに中心に活動したと伝えられる人物。
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「スペイン王妃マリー=アンヌ・ド・ヌブール (Marie-Anne de Neubourg) と貴族メルガル伯爵 (comte de Melgar) の私生児といわれている。その人生を通じて享受していた経済的な安泰や高度の教育・教養はこの出自によるものが大きいと考えられる。教養についていえば、同時代人には、化学に限らず様々な分野の知識が豊富で、巧みな音楽家であり、優れた画才を示したことが評価されている。しかし彼の前半生は不明な点がきわめて多く、その正体が明確になるのはフランス社交界で活躍する1758年以降、彼が67歳になってからである。しかしこの年齢が正しいのかどうかも不明で、社交界で活躍していた時期の彼は40代以前にしか見えなかったという。」
とあるけれど、サン・ジェルマンは、形而上の世界では、すごい魂らしく、
スピルチャル系の本にどれほど、登場するか。年齢不詳に見えるのは、人間の老化を超越してたとか。
錬金術師とか、魔術師とか、
フランス革命を予言して、ルイ16世、マリーアントワネットに、フランスから逃れるように、言ったと、どこかで、読んだ。すごくないですか?


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