パリ国立オペラ☆バレエ☆オペラ座の歴史 [フランス]
パリオペラ座のバレエは、コールド(群舞)の美しさが定評。みんなソロで踊れるダンサーばかりのエリート集団と言われる。とにかく才能豊か。フランスのバレエだけあって、衣装や美術もきれい。本当にきれいなバレエダンサー、やはりピラミットという階級制で、とても競争激しいし、才能のぶつかりあい。
世界のどのバレエ団がいいかは、好みの問題だけど。ロシアもアメリカも、イギリスも伝統あるバレエ団あるし。でも、パリのオペラ座は、内もパリの観客も目が肥えてるだけあって、美そのもの。
パリ国立オペラ(Opéra national de Paris)は、フランスを代表するオペラ、バレエ団体。
文化省が管轄する『商工業的性格の公共機関』(Établissement public industriel et commercial français)の一つで、過去・現在のオペラとバレエ作品の紹介を使命としている。
主にパリのガルニエ宮とオペラ・バスティーユで公演している。この団体を指してオペラ座と呼ぶこともある。
後進育成の教育施設を持ち、また、青少年のための催しを毎シーズン開く。
歴史
『パリ国立オペラ』とは、パリの『国立オペラ―バレエ劇団』の、1994年以降の名前である。
みなもとは、『音楽アカデミー』で、それは、作曲家ロベール・カンベール(Robert Cambert)と組んで宮廷用オペラを作っていた詩人ピエール・ペラン(Pierre Perrin)の請願が、財務総監コルベールの仲立ちで、
ルイ14世に認められ、1669年に設立された。
その後、『王立』、『帝国立』を冠したことも、単に『オペラ』と呼んだときもある。
その『オペラ座』または『パリ・オペラ座』の呼称がいつごろから広まったかは、明らかにできないが、1875年開場のガルニエ宮の所在地は、『オペラ広場』で、1878年敷設の、ガルニエ宮とコメディ・フランセーズとを直に結ぶ街路は、『オペラ大通り』である。日本のある仏和辞典は『opéra:歌劇、歌劇場』、『Opéra:パリのオペラ座』と書いている。
劇団が本拠とする劇場も《世界初演とそのときの劇場》にあるように移り変わった。
1672年、イタリア生まれのジャン・バティスト・リュリが
ペランとカンベールを逐い、多くの自作を公演した。しかし、後継の親族らの経営は低迷し、1733年以降のラモーのオペラは評判を呼んだが、赤字は積もった。
フランス革命の10年ほど前には、ドイツのグルックとイタリアのピッチンニのオペラが、競り合った。革命期には、迎合的な作品も上演された。経営者が次々と代わり、
ナポレオン政府の1807年の経済的措置でようやく救われた。
1821年からの11代目の劇場サル・ル・ペルティエでは、まずパリに滞在中のイタリアのロッシーニが活躍した。ドイツのマイヤベーア、イタリアのドニゼッティもパリに住んでオペラを書いた。
初演ではないが、ワーグナーは、『タンホイザー』のオペラ座公演(1861年3月13日)のため、パリ人が好きなバレエを書き加えた(「パリ版」と呼ばれる)。
1880年3月22日には、ヴェルディが、ガルニエ宮で『アイーダ』の棒を振った。
300余年前の発足時から、この劇団は、内外の多くのオペラとバレエとを舞台にかけ、諸国の指揮者・歌手・演奏家・舞踊家・管弦楽団・歌劇団・バレエ団などを広く招き、世界的な歌劇団としての役割を果たしてきた。
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