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アイスダンス☆フランス代表 フランス人とロシア人カップル アニシナ & ペーゼラ [芸術]

過去に、すごい個性の強い、インパクトの強烈なアイスダンスのカップルがいた。
アニシナ & ペーゼラ 組images.jpg
とても、情熱的なダンスで。それで、このカップルその後、どうなったのかなと。
踊りみてると、恋人同士にみえること多かった。

映像探してみると、大変なことがあった後みたいだけど、いい演技。



女性のダンサー は、フランス人ダンサーを追っかけて、フランスにやってきた情熱って感じの見た目と、経歴。
マリナ・ヴャチェスラヴナ・アニシナ(1975年8月30日 - )
ロシア出身、フランスの女性フィギュアスケート選手で現在はコーチ。
2002年ソルトレイクシティオリンピックアイスダンス金メダリスト
。2000年世界フィギュアスケート選手権優勝。
パートナーはグウェンダル・ペーゼラ、イリヤ・アベルブフ、セルゲイ・サフノフスキー

フランス人パートナーにたどり着くまでに、
アベルブフと1990年と1992年の2回、世界ジュニアフィギュアスケート選手権に出場している。
しかしその後アベルブフがイリーナ・ロバチェワと恋に落ちてしまい、アベルブフはロバチェワと新たにチームを結成してしまう。後に2人は結婚。
パートナーを失ったアニシナは必死で新たなパートナーを探し、1993年にフランスのグウェンダル・ペーゼラとチームを結成。その後アニシナはフランス国籍を取得してフランス代表となり、チームは強豪の一つと認知されるようになる
1998年の長野オリンピックでは銅メダルであったが、2002年のソルトレイクシティオリンピックではかつてのパートナーであったロバチェワ&アベルブフ組を僅差で抑えて優勝を飾った。
引退後はプロスケーターとして活躍する一方、コーチや振付師としても活動。


男性のダンサー:
グウェンダル・ペーゼラ(フランス語: Gwendal Peizerat、1972年4月21日 - )
フランス出身の男性フィギュアスケート選手。
2002年ソルトレイクシティオリンピックアイスダンス金メダリスト。2000年世界フィギュアスケート選手権アイスダンスチャンピオン。パートナーはマリナ・アニシナなど。

それで、結局、お二人は別々の道にいるみたい。
女性のアニシナは、
2008年2月、ウクライナ出身のチェチェン系でロシアを中心に活躍している歌手のニキータ・ジグルダーと結婚した。
男性の方は、フランスで政治家とある。

芸術ものの演技は、あくまで、演技ね。
現実生活は、また別よね。
ただ、ロシア人のアニシナの旦那様を見て驚いた。フランス人のペーゼラ氏とは、違うタイプに見える。でも、何か、共通点が。見た目は、ダンサーフランス人は、王子さまってタイプで、旦那様は、どこかの、狩猟民族みたいな。逆タイプ。でも、共通点が、みえなくもなく、二人とも、芸術的で、浮世離れしてみえる。あんまり、あんな人、普通に歩いてない。








新体操 マリア ペトロバ Maria petrova [芸術]

新聞に、2020年の東京オリンピックにむけての強化のために、
日本の新体操選手を、ロシアに留学させるとあった。
ロシアなんだなあ、と思った。ブルガリアだった時もあったのにと。

昔、新体操が好きだった。
バレエをしてたのだけど、新体操のあの身体能力に魅かれたなあ。あのすごい柔軟性、
ぎりぎりまで、追い詰めたようななんというか、あのスポーツの要素と、芸術の要素がね。
maria_petrova.jpg

ソ連って国があって、すごい選手が続々でて、それのそのはず、ソ連は、いまでこそ、沢山の国に分かれたのが、ソ連からの代表としぼられたから、すごい選手がでてた。
その後、ソ連が、ロシア連邦になって、ソ連代表が、あちこちの国代表になって、
今度は、世界選手権で、元ソ連の国が上位をもっていってた。
今、政情が不安定なウクライナは、いい選手出る国、昔から。ソ連代表も、ウクライナの人が多かったみたいだし。

その中で、その前の新体操王国、ブルガリアででた、天才選手、というか、芸術家のようなダンサーだったなと。
マリア・ペトロバ Maria petrova
マリア・ペトロバ(1975年11月13日 - )は、ブルガリアプロヴディフ出身の新体操選手だった。


略紹介
1993年~1995年にかけての世界新体操選手権で、、史上2人目の個人総合3連覇を達成。
欧州選手権で、1992年と1994年の2連覇を達成。
新体操王国・ブルガリアが、1988年のソウルオリンピック以降続いた、ソ連(ロシア・ウクライナ)勢による王座を奪回することに成功。
ブルガリア悲願の金メダルが期待された1996年のアトランタオリンピックでは、採点方法の変更・ルール改正の影響と、ボールのミスが響き個人総合5位に。

ブルガリアでは彼女の名前「マリア」を冠した化粧品ブランドがある。
1998年にサッカーブルガリア代表の正ゴールキーパーを務めたこともあるボリスラフ・ミハイロフと結婚している。彼女の義理の息子ニコライ・ミハイロフもプロサッカー選手。



you tube があった。
このころは、レオタードも、色々規制あって、まだ、全身タイツとかやっとでたあたりかな。とにかく、衣装が、一番変化したかも、現代と比べると。どんどん派手になっていった。でも、このころより以前は、も~と、シンプルなレオタードだったか。


タグ:新体操
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カミーユ・クローデル Camille Claudel 彫刻家 [芸術]

カミーユ・クローデル  Camille Claudel (1864-1943)
日本で、フランス大使してた、詩人としても有名なポール・カミーユは、弟。
関西の日仏学館には、この大使にちなんで作られた図書館ある。

昔、イザベル アジャーニが、カミーユ役を演じた映画をみて、
すごい印象に残って。
日本でも、フランスのロダン美術館でもカミーユの作品みたことあるけど、うまい彫刻家だなって、誰でも思うと思う。
なーんでだろ。
おかしいことを目にすると、カミーユやゴッホのことを思い出すんだよねえ。
今でこそ、精神系の病気も、そんなにかけ離れたことでもなくなったけど、
(知人、友人がおかしくなって、えらーい目にあったことあるとき、思い出したのが、
ポールさんというカミーユの弟さんだった。ポールさんは、狂ったカミーユをみて、
どんなことを思ったのだろうとか)
とにかく、映画の中の、カミーユが狂ったシーンにしても、なんか壮絶な感じだった。

以下、ざっと、カミーユの略歴

1864年、エーヌ県のフェレ=アン=タルドノワにて、父ルイ=プロスペル・クローデルと母ルイーズの間に3人兄弟の長女として生まれる。
子供の頃から彫刻に親しみ、卓越した技術と才能を発揮していく。
19歳の時に彫刻家オーギュスト・ロダンの弟子となる。ロダン42歳。2人は次第に愛し合うようになるが、ロダンには内妻ローズがいたため三角関係となる。その関係はその後15年にわたって続いていく。
その中でカミーユは20代後半にロダンの子を妊娠するも中絶し、多大なショックを受ける。やがて2人の関係は破綻を迎え、ロダンは妻ローズのもとへ。
徐々にカミーユは心を病み、40代後半に統合失調症を発症する。
1913年3月10日、48歳の時に家族によってパリ郊外のヌイイ=シュル=マルヌにあるヴィル・エヴラール精神病院に入れられた。
その後第一次世界大戦の影響で南仏のモントヴェルク精神病院に移動させられ、生涯をそこで過ごした。
後に、毎朝決まって病院構内の礼拝堂に向かい祈った。カミーユは誰とも口を聞こうとせず、一人自己の世界に閉じこもった。また、ロダンへの憎しみと周囲の患者を見下すことでかろうじて自己の精神の孤高を保った。晩年のみすぼらしい身なりで痩せこけ、精彩を欠いた姿に面会したポールは愕然としたという。
第二次世界大戦中の1943年、家族に看取られることなく亡くなった。78歳没。
故郷に帰ることを終生願ったが叶うことはなかった。
精神を病んだ後カミーユは多くの作品を破壊したが、そのうち約90の彫像、スケッチ、絵画が現存した。死後の1951年、ポールはロダン美術館で彼女の作品の展示を行った。

images.jpg

統合失調症って、現代は、よく聞く病気だけど、ポールさんのような心境を味わっておられる周りの人って結構おられるんだろうか。。
人が狂うのを見ると、なかなか、なんというか、げそっとなった。
なんていうかなあ、こりゃ、えらいことだなと、目が覚める感じというのか。
やはり、あんまりストレスをためるようなことは、身体によくないと思うなあ。
自分を苦しめることも、ストレスだから、精神と、感情と、肉体は、つながってる。
みなさま、お幸せに。

Human zoo というアートだって。。。 [芸術]

France 23 で見つけたもので。
人間を展示するアート。
Human zoo なんか、これは気持ち悪い。
展覧会がフランスで開かれるってことらしいですけど。
そのアートの作者は、 white South African artist Brett Bailey さんだそう。

‘Human zoo’ exhibition comes to Paris amid racism row
詳しくは、
http://www.france24.com/en/20141119-human-zoo-exhibition-comes-paris-amid-racism-row-france-art/
Bailey insists “Exhibit B” aims to improve awareness of the racism of Europe’s colonial past, while challenging viewers to question their role as voyeurs in contemporary human tragedies

アートっていっても、心地よくない方向のアート。。
an art show featuring black actors in cages ってことで、女優さんを、網の中に入れてみせるってっものみたいですけど。
論議呼ぶわね。そりゃ。こういうのは、受け入れられる人と、嫌いって人との、
無関心にわかれるか。

エドマンド・デュラック フランス人で、ロンドンで花開いた挿絵作家 [芸術]

エドマンド・デュラック (Edmund Dulac, 本名エドモン・デュラック Edmond Dulac)
1882年10月22日、フランス、トゥールーズに生まれ。
父親が、織物会社の外商のセールスマンで、コックもメイドもいたらしいから、裕福な家庭に育つ。父親が、古い絵を買って、修復して売って、収入の足しにしていたこともあって、絵心養ってるね。
親が、彼に、外交官になってほしかったので、トゥールーズ大学で法律を学ぶけど、同時に美術学校にも通ってた。二年後法律やめて、絵一本。美術学校にフルタイムで。
このころから、英語のレッスン受け、英国の画家にあこがれてる。
イギリスかぶれ。それで、名前が、英国風に。美術学校は、通算3年。
そのあと、パリで、アカデミー・ジュリアンに、奨学金で通うけど、すぐやめる。(3週間)
故郷に戻って、13歳年上のアメリカ人結婚して、すぐ失敗。
ここで、次英国だ。
人も、場所も、縁だもんね。英国で、挿絵作家のチャンスつかんでいく。
22歳のデュラックは、J・M・デント社から出版されるブロンテ姉妹 の全集本の挿絵かく。

彼の挿絵作品:
アラビアン・ナイト』(1907年)、『テンペスト』(1908年)、『ルバイヤート』(1909年)、『眠り姫、その他のお話』(1910年)、『アンデルセン童話集』(1911年)、エドガー・アラン・ポーの『鐘、その他の詩』(1912年)など

英国関係の絵本の挿絵でみたことあるけど、名前とかあまりしらなかった。
図書館で、「挿絵画家 エドマンド・デュラック の世界」(平松洋監修)を見つけて、
なんか、知ってる絵が多いし、ちょっと、独特感もある。結構好きだなと。
占星術にこった時があるからか、とても神秘的な絵描く。

こんな感じ。「シンデレラ」から
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ローザンヌ国際バレエコンクールとは?2014年は? [芸術]

Prixdelausanne_photo_Gregory_Batardon__50A7310web-426x426.jpgバレエをしてた時、毎年のように、NHKで、放映せれるのを楽しみにいてた。とくに、コンテンポラリーを。
近年は、日本人ダンサー若手が、受賞されてるようで。長野県高校生、二山治雄さんが、優勝されてる。
フィギアスケートといい、日本の男性ダンサーはすごい。
Prixdelausanne_photo_Gregory_Batardon__50A7186web-426x426.jpg
ローザンヌ国際バレエコンクール (仏: Prix de Lausanne)は、スイスのローザンヌで毎年行われる、15歳から18歳までのバレエダンサーを対象としたコンクールである。スイスの非営利法人である舞踊振興財団(Fondation en faveur de l'Art chorégraphique)によって1973年から開催されている。
ヴァルナやモスクワなどの旧来のバレエコンクールとは異なり、若手ダンサーにキャリア形成につながる道筋を開くことを目的に掲げている。このため世界の著名なバレエ学校31校およびバレエ団30組織と提携しており、主たる賞であるローザンヌ賞(賞の節を参照)でこれらに無償で留学・研修することのできる権利を生活支援金とともに授与している。
歴代の受賞者の多くがプロとして活躍していることから、若手バレエダンサーの登竜門の一つと考えられてきた。http://www.prixdelausanne.org/

コンテンポラリーの指導画像Prixdelausanne2014_photo_GregoryBatardon_50A5637web-426x426.jpg

フランスの天才シンクロ ダンサー☆ヴィルジニー・デデュー [芸術]

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フランスのオリンピック選手、スポーツ選手、人魚姫とも言われる、
超人的身体、伝説に残る水中ダンサー。2007年世界水泳メルボルン大会、「マリア・カラスの生涯」の演技は、凄い迫力だった。経歴みてると、フランスって国は、天才を見逃さないみたいなところがあるような。

ヴィルジニー・デデュー(Virginie Dedieu、1979年2月25日 - )身長164cm。
フランスのシンクロナイズドスイミング選手。ビルジニーやドデュなどと表記することもあり。

2003年世界水泳バルセロナ大会、2005年世界水泳モントリオール大会のシンクロソロ部門において、いずれも5人の審査員すべてが芸術点に10点満点を与えるという圧倒的な力量を見せつけ連覇。顔の表情や身体の動きばかりか、演技中に上がる水飛沫すらコントロールし、プール全体を完成された一つの舞台として創り上げたその高度かつ独特な演技により、”不世出のソリスト”との評価を確立した。

その後引退を表明したが、彼女の後女王の座についたナターリア・イシェンコ(Natalia Ischenko)の演技を「技術は高いが芸術的には何も新しいものがない。私の考えるシンクロは芸術だが、彼女のものはそうではない」と評し、1年8ヶ月のブランクを経て電撃復帰。完璧と言われるイシェンコの技術に対し、引退前よりも磨きのかかった技術力に持ち前の表現力を加えて臨んだ2007年世界水泳メルボルン大会にて、「マリア・カラスの生涯」を見事に演じきり、シンクロソロ史上初の世界水泳3連覇を果たした。

日本では写真集やDVDも発売、2004年にコカコーラのCMに出演した。2007年6月末より、同じ事務所の武田美保(アテネ五輪シンクロ銀メダリスト)と共に松任谷由実のシャングリラIIIに出演。松任谷由実とはプライベートでも親交がある。

ノーズクリップをつけないで演技する事で有名であるが、それが可能な理由についてデデューは、羊水の中の胎児の鼻にあるドアが、小さい頃から水に入っていたため自然に残ったのかもしれないとか。

virginiededieu.jpg
経歴
1979年2月25日、フランス・エクス=アン=プロヴァンスで生まれる。
1980年、生後18ヶ月でスイミングスクールに行く。
1985年、6歳の時にスカウトされシンクロを始める。
1995年、世界ジュニア選手権(ボン) ソロ 2位
1997年、FINA ワールドカップ(広州) ソロ 3位
1998年、世界水泳(パース) ソロ 2位 デュエット 3位
1999年、FINA ワールドカップ(ソウル) ソロ 2位
2000年、シドニー五輪 デュエット 3位
2001年、世界水泳(福岡市) ソロ 2位
2002年、FINA ワールドカップ(チューリッヒ) ソロ 1位
2003年、世界水泳(バルセロナ) ソロ 1位
2005年、世界水泳(モントリオール) ソロ 1位
2005年7月、現役引退を表明する。
2006年12月、2007年の世界水泳での現役復帰を表明する。
2007年、世界水泳(メルボルン) ソロ 1位
2007年6月末-9月17日「シャングリラIII」で松任谷由実と共演する。
2008年6月1日、男児出産。
現在は現役を引退し、子育てをしながら、後進の指導などを行っている。

デデューについて、こんなのもあり。
陸上世界に完全適応することに成功した初めての人魚。より堅い言い方をすると、地球温暖化による海面上昇で存続の危機にある人類と、海洋汚染でこれまた存続の危機に瀕している水生人類の中から、突然変異的に出現した「両生型人類」である。能力を活かしシンクロナイズドスイミングの選手として活躍、数々の伝説を残した。現在は現役を引退し、子育てをしながら、自分を慕って上陸してきた後進の指導などを行っている。
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天才フランス人 バレエダンサー ☆シルヴィ・ギエム  [芸術]

シルヴィ・ギエムは、2015年限りで、現役を引退すると、表明したそう。
来年12月の来日公演が、最後になるとか。

シルヴィ・ギエムSylvie Guillem, 1965年、フランス・パリ生まれ:バレエダンサー
「世紀のバレリーナ」とか「100年に一人のダンサー」いわれる天才ダンサー

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幼少の頃より体操を本格的に習い、12歳の時オリンピック国内予選を突破。当時のパリ・オペラ座バレエ学校校長のクロード・ベッシーにスカウトされ、1976年にパリ・オペラ座バレエ学校に入学する。1981年にオペラ座バレエ団に入団する。「強靭な肉体」と表現されることも多く、柔軟な体、弓のようなアーチを描く足の甲や、200度は開いていそうな開脚・ジャンプが特徴である。クロード・ベッシーは彼女の足の型をとり、ブロンズ像を作らせたほどだった。4dc023f6.jpg

 1983年、ヴァルナ国際バレエコンクールにて金賞・特別賞・優秀賞の三冠を手にする。
 1984年カルボー賞受賞。プルミエール・ダンサーズに昇進。
 1984年12月29日、初主演の「白鳥の湖」終演直後に、19歳にして当時の芸術監督ルドルフ・ヌレエフより最高位であるエトワールに直々に任命される。ギエムは多忙を極め、固定のスタジオに彼女が残り、振付師と周りのダンサーだけが入れ替わりたちかわり出入りして一日が過ぎるような状態が続く。
1985年、ヌレエフと初来日し、「白鳥の湖」(東京バレエ団)に客演。

外部からのオファーがあっても受けることの許されない契約と束縛に不満が募り、
1988年、パリ・オペラ座バレエ団を電撃退団。フランスでは「国家的損失」とまで言われた。
同年イギリスに移り、ロイヤル・バレエ団のゲスト・プリンシパルとして活躍。フリーとして頻繁に日本にも訪れるようになる。
2001年、「ブロークンホール」でオリヴィエ賞受賞。

パリ・オペラ座時代より積極的にコンテンポラリー・ダンスに取り組む。「白鳥の湖」のオデット/オディール、「ドン・キホーテ」のキトリ、「グラン・パ・クラシック」などのクラシック・バレエ全般はもとより、モーリス・ベジャールの「ボレロ」、「シシィ」、ウィリアム・フォーサイスの「In the Middle, Somewhat Elevated」など多くの代表作を持つ。



昔、ロンドンで、偶然みたのは、これでした。intro_03.jpg

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