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2014年通訳ガイド試験に出題された フランス人・クーベルタン男爵ってどんな人? [フランスの歴史]

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後に「近代オリンピックの父」と呼ばれるピエール・ド・クーベルタン男爵。
近オリンピックの提唱者。
1863年1月1日、貴族の家系の三男、パリ生まれ。当時の貴族の子息の多くがそうであったように士官学校に学び、ゆくゆくは軍人か官僚、あるいは政治家になることを期待されていたが、その道は彼を満足させるものではなく、次第に教育学に興味を示すようになる

 というのも、彼が青春時代を送っていた当時のフランスでは、普仏戦争(1870~71)の敗戦を引きずり沈滞ムードが蔓延していた。この状況を打開するには教育を改革するしかない、と考える。
.そこでクーベルタンは、まずはパブリックスクール視察のために渡英。このとき熱心な愛国主義者であった彼は、大のイギリス嫌いだったそう。
 しかし彼は、イギリスの学生たちが積極的に、かつ紳士的にスポーツに取り組む姿を見て感銘を受け、たちまちイギリス贔屓になってしまう。そして、「服従を旨として知識を詰め込むことに偏っていたフランスの教育では、このような青少年は育たない。即刻、スポーツを取り入れた教育改革を推進する必要がある」と確信。
 その後も彼は、精力的に各国へ足を伸ばし、見聞と人脈を広げていく。とりわけアメリカでの体験は刺激的だった。彼には、ヨーロッパほど階級や伝統・慣習に縛られていないアメリカ社会は、古代ギリシャの都市国家の自由さに似ている、と感じられた。
また、当初は「自国の教育改革のために」スポーツを取り入れる必要性を感じていたクーベルタンだったが、次第に「国際的競技会」の構想をふくらませていく。世界各地を視察。
.
「古代オリンピック」への関心の高まり
 折しも1852年にドイツの考古学者によってギリシャのオリンピアで遺跡が発掘され、以来、そこで行われていたという古代の競技会への関心が高まっていた。
同じ頃、あくまで地域的で小規模なものではあったが、ヨーロッパ各地で「オリンピック」と銘打った競技会が行われていた。
 それに刺激されたクーベルタンは、スポーツ教育の理想の形として「古代オリンピックの近代における復活」を思い描くようになっていく。
 ただし彼が思い描いたのは、一国の国民だけが参加する競技会ではなく、もっと普遍的で、明確な理想を背景とした運動。

近代オリンピック誕生
 1894年6月、パリの万国博覧会に際して開かれたスポーツ競技者連合の会議で、 クーベルタンは、オリンピック復興計画を議題に挙げた。すると満場一致で可決
第1回大会は、1896年、古代オリンピックの故郷オリンピアのあるギリシャで開催することも採択された。 
また、同じ会議で、古代の伝統に従って大会は4年ごとに開催すること、大会は世界各国の大都市での持ち回り開催とすること、
大会開催に関する最高の権威を持つ国際オリンピック委員会(IOC)を設立すること、など、近代オリンピックの基礎となる事柄が決定されている。今では定員115名で構成されているIOC委員、そこで決定したIOCの委員は、わずか16名だった。



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